「13歳からのアート思考」音楽はどこまで自由になれるのか

「13歳からのアート思考」音楽はどこまで自由になれるのかプレイヤー向け

どうも、ヤスイです。前回に引き続き「13歳からのアート思考」から、音楽の可能性を探ってみようと思います。

こんな記事を書いていますが、僕自身はまったく前衛的なアーティストではありません。ミッシェル・ガン・エレファントのアベフトシに憧れてギターを弾きはじめ、当時話題だったRADWIMPSとかホルモンとか、9mmとか、ボカロとか、そういう曲のカバーをする学生バンドをやって、高校卒業するくらいのときに銀杏BOYZにドハマリして、大学時代はパンクロック一筋。現在はHecatoncheir sistersでストレートなロックンロール系というか、変わったことするよりも「音源作ってライブする」という基本的な活動をコツコツやっています。

なので、前衛的なアイデアを出すのは正直好みじゃない。「音源作ってライブする」これをいっぱいやりたいし、何より自分たち自身が楽しみたい。音楽の価値を真剣に考え、音楽シーンを変える音楽を作りたいとかは正直ない。自分たちの曲も、米津玄師みたいな記録は作れないだろうけど、どこかに好きになってくれる人はいるだろうから、その人の街にライブしに行きたい。そういう感じです。

ただそんな僕でも「13歳からのアート思考」にはかなり感銘を受けた。なので、もしあなたが前衛的な何かが好きで、音楽シーンに新しいなにかを残してやろうと考えているタイプなら、この本はおすすめです。多分僕が書いている以上にいろんなアイデアが出るでしょうし、それらを実現できる可能性も高い。

ということで、今回は「13歳のアート思考」の最後の記事。
前々回は「アート思考とはなにか」と、マティスの「緑のすじのあるマティス夫人」という作品から、”正解”を壊すことについて考えてみた。
前回はピカソの「アビニヨンの娘たち」から1つの視点だけが全てじゃないこと、何かを分解して再構築すること、そしてカンディンスキーの「コンポジションⅦ」から創り手だけじゃなく、見る人によって完成されるアートについて考えてみた。

そして今回、残り3つのアート思考から、音楽に何ができるかを考えてみます。

デュシャン 美しくある必要はない

マティスは「目に見えるものを正確に表現すること」という常識を壊しました。ピカソは「遠近法を使って視覚的に正しく描くこと」という常識を壊しました。カンディンスキーは「作品そのものに意味が込められていること」という常識を壊しました。
こうしてアートは写実的である必要もなければ、それそのものが意味を保つ必要がない(見る人が自由に意味づけしていい)という自由を手に入れたわけです。

アートの歴史は常識を疑うことの歴史だと著者は言っています。これは音楽にも共通して言えることだと思います。

次のアート思考がなにか、楽しみに読み進めていると著者が5つの質問を投げかけてきます。せっかくなので一緒に考えてみましょう。

  1. アートは美を追求するべきか?
  2. 作品は作者自身の手で作られるべきか?
  3. 優れた作品を作るには優れた技術が必要か?
  4. 優れた作品は手間暇かけられているべきか?
  5. アート作品は視覚で味わえるものであるべきか?

さあ、この5つ。少し考えてみてください。
僕は音楽をやっているので、音楽の視点から言うと1番以外ノーです。1番はイエス。音楽の中には美しいとは言えないようなジャンルもありますし、人間の汚い部分、負の部分を歌った曲も多くあります。しかし、そのそれぞれがそれぞれの意味で美しい。銀杏BOYZの峯田なんか、嫌いな人からしたら信じられないでしょうが、僕にとってはめちゃくちゃ美しい存在です。ただどんなタイプであれ、何らかの美しさは必要だと思います。

他はノー。作品を作者自身が作る必要はない。カバーアーティストだって立派なアーティストです。技術が必要な音楽もありますが、技術があまり必要ないのに素晴らしい曲も多くある。手間暇かけることが正解なら僕らが毎週やっているセッション曲に価値がないことになるが、そうではないと思いたい。視覚も大事だけれど、音楽だって立派なアート。

あなたはこの質問にどう答えますか?

この質問、現代の我々からすると結構ノーが多いと思いますが、20世紀は絶対的イエスだったわけです。
アートは美しく、作者自身が優れた技術を持って手間ひまかけて創り、見る人はそれを視覚で味わう。これが絶対的な正解とされていた時代
そんな時代であることを念頭に、この作品を見てください。

マルセン・デュシャン 「泉」

マルセン・デュシャン 「泉」

1887年生まれのデュシャンが30歳のときに作った作品。1917年頃ということですね。

マティスの「緑のすじのあるマティス夫人」が1905年、ピカソの「アビニヨンの娘たち」が1907年、カンディンスキーの「コンポジションⅦ」が1913年。そしてデュシャンの「泉」が1917年。
すごい時代ですね。数百年続いたアートの常識が、数年置きにどんどん壊されていく。
そしてこのデュシャンの泉という作品、「アートに最も影響を与えた20世紀の作品」の1位に選ばれたそうです。そして2位がピカソの「アビニヨンの娘たち」
おお、アビニヨンの娘たちを超えてきたのか。この泉という作品は。

ということで「泉」という作品から何を感じ取りましたか?
まあ、言われてしまえばそのとおりでしかないんですが、これは「便器を取り外してサインしただけのもの」です。

これをどう解釈すればいいんでしょうね。前衛的すぎて僕には理解できないので、本書の言葉を借りながら紹介していきます。

「泉」を発表した当時、デュシャンはすでにアーティストとして一定の評価を得ていて、展覧会の実行委員も担当していたそうです。デュシャンは自分が実行委員を務める展覧会を利用して、偽名で「泉」という作品を展示しようとしました。
その展覧会は審査無しでだれでも作品を飾れるものだったのですが「さすがに便器はアートじゃないでしょう」と他の実行委員からの指摘が入り、結局展示出来なかったらしいです。デュシャンはどんな気持ちでそのやり取りに参加していたんでしょうね。「まあ、たしかにこれは便器だしな」とか言ったんでしょうか。それとも「いやいや、無審査なんだから展示してあげようよ」とか言ったんでしょうか。

まあ結局展示されなくて、展覧会の後デュシャンが発行していたアート雑誌に写真を掲載しました。

雑誌に掲載されて一大センセーションを巻き起こすわけですが、時は流れ2018年、東京国立博物館でデュシャンの作品として「泉」が展示されました。
サインが描かれたただの便器がガラスケースの中に展示され、多くの人がそれを鑑賞しています。

「泉」についてもう少し説明すると、まず使われた便器は正真正銘ただの便器です。趣向を凝らしたもの、デュシャンが作ったものではなく、どこにでもある便器です。しかも、デュシャンが最初に公開した「泉」はゴミと間違われて捨てられてしまったそうです。美術商がどうしても「泉」が欲しいといい、フリーマーケットで中古の便器を購入し、デュシャンに「この便器にサインしてくれ」と頼んだそうです。それが、今展示されている「泉」です。
ただの便器どころか、デュシャンが選んだものでさえない。美術賞の人がフリーマーケットで手に入れた中古の便器です。
その便器が「最も影響を与えた作品」と呼ばれ、立派なガラスケースに収納され、インテリどもが真剣に鑑賞しているんです。

すごい状況ですね。表現の花としての「泉」をいくら眺めてもその価値はわかりません。どんな興味のタネと探求の根を持っていたのかが重要です。

ということで最初の質問を見てみましょう。

  1. アートは美を追求するべきか?
  2. 作品は作者自身の手で作られるべきか?
  3. 優れた作品を作るには優れた技術が必要か?
  4. 優れた作品は手間暇かけられているべきか?
  5. アート作品は視覚で味わえるものであるべきか?

「泉」は美しくはありません。デュシャン自身が作ったものでさえありません。サインしているだけなので技術も手間暇も必要ありません。そして、こういうことを考えている事自体、見て作品そのものを味わうのではなく、頭の中で考え鑑賞しているといえます。
つまり、デュシャンは既存のアートの観念を完全に壊したのです。「現代の我々からすると結構ノーが多い」と言いましたが、それは100年前にデュシャンが「絶対にイエス」という常識を壊したからなんです。

デュシャンは「泉」の前からある程度評価されたアーティストでした。なので、「泉」に対してもいろんな評論家が「この陶器の白い輝きが美しいのではないか」とか色々考えたそうです。ただの便器にそんな意味を付けないといけないほど「アート=美しいもの」という常識があったんですね。

美しくない音楽を創れるか

デュシャンが行ったことを音楽にも当てはめてみたいのですが、これについて考えるのは難しい。

まず、音楽における常識はなにかを考えて見ましょう。

  • Aメロ、Bメロ、サビなど基本的な構成要素がある
  • ベースはルート音を中心に音楽の土台を支える
  • ドラムはキックとスネアとハイハット(orライド)で基本のビートを創る
  • ギターにはリズムギターとリードギターの2つの役割がある
  • 曲にはキーがあってキーの中で音を組み合わせる

う〜ん、なんかテクニック的というか、表面的なものばかりですね。すでに当てはまらない作品がいっぱいありますし。もっと大胆に常識を壊せないものか。

  • ボーカルは意味のあることを歌う

お、この発想は良いかもしれない。色んな曲がありますが、おそらくすべて歌詞には何かしらの意味、メッセージがあります。「音楽=意味のあることを伝えるもの」は「アート=美しいもの」に匹敵するくらいのコンセプトじゃないだろうか。

全く意味のない歌詞。たとえばコンピュータープログラムに発音記号をランダムに出力させて、それにメロディを当てる。確実に意味のない歌詞になるでしょう。
で、それを聴いた人はどうするか。おそらく意味のない発音の羅列から何らかの意味を見つけ出そうとするはず。「暗号が用いられているのではないか」「逆再生したらわかるんじゃないか」「もしかしてアゼルバイジャン語?」とか、そういう議論が生まれるはず。
これはデュシャンの作品を見て多くの人が「これはアートなのだろうか」「一体どんな美しさがあるのだろうか」と一生懸命考えたのに似てる。つまり、曲を聴いて何かを感じるのではなく、曲そのものに対して「どんな意味があるんだ」と考える。頭の中で創り上げる音楽です。

  • ライブハウスの音はでかいもの

お、これも良いかもしれないですね。ライブハウスって基本的に音がでかいです。でかい音を楽しみに来ているといってもいい。じゃあ逆に「めちゃくちゃ音が小さいライブハウス」というコンセプトはどうだろう。隣の人の息遣いが聴こえる。アーティストが出す音より、リスナーが上げる声、足音、飲み物を飲む音、タバコに火を付ける音が響き渡っている。

これはかなり面白い。何度も味わいたいものではないけれど、面白そう。
全員がヘッドフォンをしているライブハウスとかどうだろう。アーティストが出す音はスピーカーではなくヘッドフォンから出ている。ヘッドフォンを外すと、演奏は聴こえない。その代わりにリスナーの声や息遣いなど細かな音が聴こえる。それで「あ、このタイミングで誰かライターに火をつけたな」とか考えるわけです。
これはある意味、ステージに立つアーティストではなく、リスナーやその場そのものが主役になっていると言える。「演奏を聴きに行くライブではなく、演奏を聴いている人の息遣いを聴きに行くライブ」というコンセプト。これもかなり面白い。

  • 音楽は高音質なほどいい

前述の2つに比べるとインパクトはないけれど、これも面白いかもしれない。以前、Amazon Prime HDについての記事で書きましたが、最近音質への関心が高まっています。ハイレゾが聴けるサービス、デバイスも増えてきましたし。
でも、本当に高音質は正義なのか。いっそ、電波の悪いラジオみたいな音質にしたらどうだろう。聴く人は曲を聴くためにめちゃくちゃ集中しないといけません。耳を凝らし、集中して、どんな音が鳴っているのかを聴き取る必要がある。音楽の大半がBGMとして消費されるようになった現代で、そんな聴き方をされる曲がどれくらいあるでしょうか。だいたいみんな、通勤途中とかにBGMで聴いて「この曲好きー」とか言ってるわけです。
いや、もっと集中して聴けやと。音質を落とすことで、集中しないと聴けないようにしてしまう。これも面白い取り組みです。

こんな風に常識を上げていってそれをノーに変える方法を考えるといろんなアイデアが出てきそうですね。

ポロック これは「紙」と「絵の具」です

続いてのアート思考はジャクソン・ポロックの「ナンバー1A」です。これは「13歳からのアート思考」の中で一番衝撃的だったものです。
とりあえず見てみましょう。

画像:ジャクソン・ポロック 「ナンバー1A」

画像:ジャクソン・ポロック 「ナンバー1A」

これまで出てきたマティス、ピカソ、カンディンスキー、デュシャンはすべてヨーロッパのアーティスト。それに対し、ジャクソン・ポロックはアメリカで活躍したアーティストです。とうとうアメリカがアートを変えてくるわけです。
「ナンバー1A」といういかにも無個性な名前がついていますが、ポロックは似たような作品を大量に作っていて「ナンバー17A」は史上5番目に高額で落札された作品でもあります。

まあわけがわからない作品です。見たまんまめちゃくちゃですが、ポロックはこの作品を床にキャンバスを敷き、筆や棒、自分の手等を作って適当に絵の具を撒き散らして描いています。
メチャクチャな方法で描いたら面白がって高額で売れる、という話ならわかりやすいんですが、そんな訳もありません。

ということで、本書の中で言われている実験をしてみましょう。

1つは「適当に落書きしてください
もう1つは「窓を見てください

さあ時間をとってやってみてください。時間がない人はそのまま読み進めてOKです。

まず「適当に落書きしてください」と言われたとき、何を描きましたか?目の前にあるスマホとか、服とか、ボールペンとか、もしくは誰かの似顔絵とか、抽象的な何かかもしれないですが、何かを描いたはずです。
続いて「窓を見てください」と言われたとき、ちゃんと窓を見ましたか?いや、見たよと思うかもしれませんが、本当に窓を見たのか考えてみてください。窓の向こうにある景色を見たのではないですか?

何が言いたいかというと、僕たちは画は何かが描かれているはずだという認識のもと、画を見たときに「そこに何が描かれているか」を見ているのであって、その時「キャンバスと絵の具」であるという現実を見ていないということなんです。

うわ、これは響いた。「窓を見てください」と言われて、物質として透明な窓を見る人はなかなかいません。落書きした時、適当に描いていいと言われているのに何かを描いてしまいます。画を見たときは、そこに何かが描かれているという前提で見ています。

人物画を見せられてなんに見えるか聞かれたら「女性が描かれていますね」とか「中世の貴族か何かでしょうか」とか「輪郭がぼやけているのに細部まで描かれてすごいテクニックですね」とか、そういうことを言ってしまうわけです。
でも違う。これ「キャンバスと絵の具だよね」ということなんです。

ポロックはここに投げかけたんです。「お前ら、画を見るとき、画を見るのではなく画に描かれているものを見ているだけじゃねえか」と。
それで、何にも見えないような画を描いたんです。「ナンバー1A」に何が描かれているかを考えても無駄。そこにはただ物質としての画、つまり「キャンバスと絵の具」があるだけ。

うわあ、これは衝撃。とうとうここまで来たかという感じですね。「アートとは」に対する究極の答えです。「絵画とはなにか。キャンバスに絵の具を塗ったものです」これで完璧。説明しきっている。

音に目を向けることはできるのか

僕は特に何も考えずギターを適当に弾いてるときがありますが、「音」ではなく「音楽」です。何も考えずにやっても、フレーズめいたものを弾いていますし、無意識にスケールとかに沿ってメロディを創っています。それで「お、今のメロディいいな」とか言うわけです。なかなか「お、今の音いいな」とは言いません。
ポロック流に言うなら「それは音が何を表しているかに注目しているのであって、音そのものに注目できていない」という感じです。

じゃあ、音そのものに注目できるのか。「これいい曲ですね」じゃなくて「これただの空気の振動ですね」と言われるような音楽。

思い付かないな。ただめちゃくちゃに音を詰めたら良いんだろうか。

似てるのかわかりませんが、昔つんく♂さんがBerryz工房の「Because happiness」と℃-uteの「幸せの途中」の2曲をリリースしたとき、1曲ずつでも聴けるけど、2曲同時再生したらさらにすごい曲になる、みたいなことをやっていました。

この2曲、全く曲調も違うのですが、同時再生すると

こんな風になります。

いやあ、これはビビりましたね。僕は種明かしされて話題になったくらいのタイミングで聴いたのですが、音楽にこんなアプローチがあったのかと。

調べて見ると他にも似たようなことをやっている人がいて、THE FLAMING LIPSというアーティストは1曲を構成する12のトラックを別々に公開したらしいです。

これがその1つめ。同じような感じの動画が12個公開されていて、それぞれを単体で聴いてもよくわからないBGMです。
でもその12個を同時再生するとこんな感じになるそうです。

まあこんなわけわからない企画をするアーティストの作品なので、12個組み合わせてもよくわかりませんが、取り組みとしては面白い。

こうしたアプローチもいいですが、結局一つ一つの音に意味があって、音楽という形になっています。もっと極端に「音」「空気の振動」に目を向けることは出来ないか。

例えば、こんなアプローチが考えられるかもしれない。
いろんな音階の音叉を並べて、その前で曲を演奏する。すると音叉は共鳴するところで鳴り出す。その音叉の音を録音してみたらどうなるだろう。
単純に曲の中で共鳴する音があれば鳴るだけなので、到底音楽にはならない。でも、その音を創っている背景には音楽がある
音楽を、音叉を通すことでただの「音」として届ける。かなり前衛的ですが、面白いかもしれない。
他にも振動しやすい風船とか、ガラスの板とかを置いて、その前で演奏する。すると風船やガラスの板が振動して微妙な音を発する。それを録音してみる。

多分聞く人は「ただの音」「空気の振動」と受け取るはず。でも、それは音楽から創られたものであり、それも1つの音楽と言える。
聴く人は意味がなさそうな「ただの音」「空気の振動」から、どんな音楽がこういう音になったんだろうと想像する。面白い。

有名なアーティストがこんなことをやったらかなり物議を醸します。米津玄師が新曲発表!とかいって聴いたら音叉がよくわからない音を出しているだけ。なんじゃこりゃとなりますよね。なんじゃこりゃとなって人は頑張って意味を見つけようとするはず。でも多分見つからない。
そしてしばらくして、米津玄師が実はこの曲をこういう風に録音して届けました、と種明かしをする。

すごいことになりそうですね。米津玄師にDM送ってみようかな。

ウォーホル アートとはなんだ

ポロックは「画に描かれているものを見るのではなく、画そのものを見ろ」と言ったわけです。
もういいでしょう。この記事をここまで書いてきて、もう3万文字くらいになります。もうちょっと頑張ればこの記事を本として出版できそうな勢いです。

でもまだ壊す壁があった。それを壊したのはみんな大好きアンディ・ウォーホル。
アンディ・ウォーホルって現代アーティストの中で神格化されている感じありますよね。ポップアートの代名詞。僕も名前はよく聞きますし、代表作であるマリリン・モンローのイラストとスープ缶は誰しも一度は見たことがあると思います。

画像:アンディ・ウォーホル 「マリリン・モンロー」

画像:アンディ・ウォーホル 「マリリン・モンロー」

画像:アンディ・ウォーホル 「キャンベル・スープ缶」

画像:アンディ・ウォーホル 「キャンベル・スープ缶」

まあこれを見ただけで疑問が出ますよね。「これはアートなの?」という疑問。だって「キャンベル・スープ缶」は全く関係ない企業が作っている製品パッケージを並べただけです。アートというよりは広告ですよね。デザインでもないかもしれない。

まあこれは置いておいて、13歳からのアート思考で紹介されているのは「ブリロ・ボックス」です。
まあ正直、「ブリロ・ボックス」じゃなくて「マリリン・モンロー」でも「キャンベル・スープ缶」でも何でも良いです。ポロックの作品で「ナンバー1A」を紹介しましたが、ナンバー17でもナンバー33でもなんでもいい。大事なのは表現の花じゃなくて、見えないところにある興味のタネと探求の根です。

画像:アンディ・ウォーホル 「ブリロ・ボックス」

画像:アンディ・ウォーホル 「ブリロ・ボックス」

「ブリロ」というのは当時アメリカで主流だった食器用洗剤です。まあそれもどうでもいい。現在の日本だったらキュキュットとかになるんでしょうか。
アンディ・ウォーホルの「ブリロ・ボックス」はブリロという洗剤のパッケージをコピーして木箱に貼り付けて、大量生産して並べただけのものです。サインもありません。
この作品を海外で展示するために輸送する際、アート作品とは認められず結局展示は行われなかったそうです。アート作品と商品では関税が違うので脱税しようとしていると疑われたらしいです。

それくらいアートの常識とはかけ離れた作品。アンディ・ウォーホルは一体何がしたかったのか。

彼は「アート」と「アートじゃないもの」の境界線を取り払いたかったんです。

人はものを見たとき、それがなにか自動で分別しています。
「広告ポスター、見栄えは良いけどアートじゃない」「商品パッケージ、これも見栄えは良いけどアートじゃない」「よくわからない抽象画、よくわからないけどこれはアート」「服のプリント印刷、おしゃれだけどアートじゃなくてデザイン」とか色々ありますよね。
じゃあその境界線ってどこにあるのか?はっきりしていないんです。創った人が「これはアートです」と言い、それが世間に認められたらアートになるし、創った人が「いや、これは商業デザインです」といえば、それはデザインになる。

デザイナーとして活躍し、その後アーティストとしての活動を広げていったアンディ・ウォーホルは「そこに壁なんてない」ということを訴えかけたわけです。

ウォーホルの問いかけは美術業界を揺るがし、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の貯蔵物にも影響を与えたそうです。

それがパックマンを始めとするゲーム機です。「ゲームはアートか?」ほとんどの人はノーと言うでしょう。実際、パックマンを展示したとき、美術評論家は「これを芸術認めるなら芸術への理解がゲームオーバーになっている」と言ったそうです。この評論家、なかなかおしゃれなこと言いますね。

それに対してMoMa側は「デザインは想像的表現の中で最高の形式の一つであり、偉大なデザインを有するなら展示するに足る」と回答したらしいです。わかったようなわからないような感じですが、とりあえず「ゲームだろうがなんだろうが、良いものは良い。それがアートでしょう」ということですね。

音楽にも壁があるのか

これについても考えるのが難しい。どんどん難しくなってきていて、最初の記事で終わってたら良かったと思います。
でもここまで来たので頑張って考えてみます。ウォーホルは「アートとデザイン、アートとプロダクトの間に壁なんてない」と言ったわけですね。芸術家が創った一枚の画も、デザイナーが創った広告ポスターも、別に区別する必要はない。見る人が「素晴らしい」と思ったらそこには芸術性があるということだ。こういう感じです。

音楽について同様に考えるとどうなるんでしょう。
まず、音楽と音楽じゃないもの。ここに壁はあるか。また、音楽とそれに関わる作品とそれ以外のもの。そこに壁はあるか。

音楽の壁というとジャンルが思い浮かびますね。ジャンルの壁、それは確かに存在しています。「ポピュラーミュージック」という括りと、「クラシック」という括りの間には壁があるかもしれない。でもイングウェイはオーケストラを背後に、指揮者を前に、ギターを弾いています。これはポピュラーミュージックか、クラシックか。

また、現代の有名曲をクラシックアレンジするコンサートも多い。

クラシックの定義もよくわかりませんね。ちゃんとあるのかもしれないですが、何十人ものオーケストラがいて、指揮者がいるものならだいたいクラシックなんじゃないの、という印象です。
でも多分、だれかウォーホル的な人がいて「オーケストラだからってポップスやっちゃだめなんてことはないんじゃない?」とか言ったんでしょうね。「ベートーベンやモーツァルトだけがクラシックじゃないよね?」とか。
つまりここの壁はもうないのかもしれない。

じゃあ「ただの音」と「音楽」の間に壁はあるか。例えば水が落ちる音、工事の音、車の音。これらはただの音であり、音楽ではない、といえるかもしれない。でも水が落ちる音を組み合わせて音楽っぽくすることはできるし、音楽の中の効果音として車の音を入れたりすることも多い。
楽器を使っていたら音楽かというとそれも違う。コップに水を入れて音程の違いで演奏する人もいるし、楽器も適当にガチャガチャやれば音楽にはならない。

「ただの音」と「音楽」の間にも壁はなさそうです。
じゃあここに気づかせることは出来ないか。この差は本当にないんだ、ということを伝える方法はないか。多分どこかに「ただの音」から「音楽」に変わる瞬間がある。その瞬間を作品にできないか。
ポロックのときに考えた、演奏して音叉を鳴らしてその音叉の音を届ける、というのが近いかもしれないですね。「ただの音」として聴くことができるけど、間違いなく「音楽」が背景にある。

他にも考えられることとしては、ジャケット写真とミュージックビデオ。
ジャケット写真も曖昧な立ち位置です。「アートワーク」とか呼ばれますけど、基本的にはそのCDを売るための広告です。でもジャケット写真だけでも一つの作品としての価値がある。それを使えないか。
CDが売れない時代と言われますが、音楽を聴く方法が増えたからです。YouTubeとか、サブスクとか使えば、ほぼ無料で大量の音楽を聴くことができる。
でもちょっと待てよ。CDの価値って、中にはいっている音楽だけじゃないはず。ジャケットアートワークや歌詞カード、盤面のデザインなど、それぞれに価値がある。そこをもっとアピールする方法をみつければ、CDも売れるかもしれない。

ミュージックビデオもそうですよね。みんな最近は「MV」って言いますけど、昔は「PV」って言ってました。プロモーションビデオ、つまり広告としての映像です。その名残か、ミュージックビデオはそれ単体で売られることは殆どない。CD購入特典とかになることはあるけど、ミュージックビデオが1つの作品という見方は意外なほど少ない。

思い返せば、ここに一石を投じたのが「[映画]人間あそび」かもしれません。[映画]人間あそびは僕も関わったプロジェクトで「人間あそび」という曲を映画化するためにクラウドファンディングで300万円集めました。その資金で映画を作り、映画の視聴券も販売していました。

[映画]人間あそびは「人間あそび」という曲をテーマにしていますが、主題歌にしているとかそんなレベルじゃなくて、「人間あそび」という曲で歌った物語を映画にしています。音楽業界初の取り組みじゃないかとワクワクしながらやっていましたが、一種の壮大なミュージックビデオであるとも考えられます。広告としてのプロモーションビデオではなく、作品としてのミュージックビデオ。音楽のおまけや特典じゃなくて、それそのものにちゃんと価値があるもの、というメッセージかもしれない。
監督のアキミチヒラクが言っているわけではないので想像ですが、そういう役割もあったのかなと思います。

他にも気づいていない壁はいろいろあると思います。壁の中で生きていると壁があることにも気づかないのが人間ですから、ちゃんと考えたらまだまだ音楽にもいろんな壁があるのかもしれません。

13歳からのアート思考を読んでほしい

まだまだ語りたいことは大量にありますが、終わりにします。13歳からのアート思考という本を読んで、これはなにかできるんじゃないかと思い、結構な文章を書きました。
ただ僕はテキストを書いただけで、なにか新しい音楽を生み出したわけではありません。それはこれから僕らがHecatoncheir sistersとしてやっていくかもしれないし、これを読んだあなたがやってくれるのかもしれない。
いずれにせよ、僕はこの記事を書いてよかったなと思います。音楽の可能性が少し広がった気がする。

ただここで難しいことが1つ。マティスもピカソもカンディンスキーもデュシャンもポロックもウォーホルも、ちゃんと常識に則って実績を作った上でそれを壊しているということです。
ピカソは無名の若造だった頃にキュビズムのアプローチを思いついていたかもしれませんが、それを実施したのは画家としてある程度地位を築いた後です。デュシャンも自分で雑誌を発行するくらい影響力を持っていたから「泉」という作品を世に出すことができた。ウォーホルも商業デザイナーとして有名だったからデザインとアートの壁を壊すことができたわけです。

つまり、いま無名の人で、こういうすごいアイデアを持っている人はたくさんいるでしょうが、悲しいことに無名の人がやっても無名のまま終わる可能性が高い。それが斬新で新しいほどそうなると思います。
「あいつがやるんだから間違いない」と言われるくらいじゃないと、なかなか常識を壊すことはできない。

ということで、まずやるべきことはなにか。
いま自分たちがやっている音楽をちゃんと突き詰めて、ちゃんと売れて、それから本当にやりたいことをやろう。
悔しいがそれが社会の常識というものです。

この記事を読んだ誰かが、その常識を壊してくれることを願っています。
僕は思いつかないので社会の常識に則ったあとで、いろいろ壊していきたいと思います。

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