中村一義が希求する「博愛」 そして尾崎豊が悔やんだこと

中村一義が希求する「博愛」 そして尾崎豊が悔やんだことリスナー向け
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多くの人を傷つけてきた。多くの人に傷つけられてきた。

互いに生きかたをあらためることは、もしかすると不可能ではないのかもしれないけど、過去に戻って「やり直すこと」は、たとえ願ったところで叶わないだろう。自分が刻み付けてしまった傷のことを思いながら、この心に刻まれた傷の痛みに耐えながら、何とかして残された人生、少しでも良い方向へと歩みたいと思う。

それはきっと僕に限った話ではないだろう。人類史とは恐らく、自分史の集合体だ。いまコロナ禍に直面する世界では、不要な争いが起きてしまっている。日々、ニュースを見ると、誰かが誰かを非難する声が聞こえてくる。傷つけあうことで得られるものなどないと、歴史から学んだはずなのに、僕たちのささくれた心は、時に過ちを繰り返してしまう。

人間の命は短いからこそ、少しでも誠実に生きなければならない。そして短いがゆえに、軌道修正を果たせぬままに、終わってしまうことにもなりうる。大それたことを夢見ては、叶えられなかったと嘆いていては、人生が「ただ哀しいだけの歩み」になってしまうだろう。僕たちは「考える葦」であるけど、結局のところ「ひ弱な葦」でしかないとも言えるかと思う。

それなら何を願えばいいのだろうか。脳裏に浮かぶのは、中村一義さんの「永遠なるもの」、そのリリックだ。

<<全ての人達に足りないのは、>>
<<ほんの少しの博愛なる>>
<<気持ちなんじゃないかなぁ。>>

 

<<ほんの少しの博愛なる気持ち。>>

中村一義さんは「永遠なるもの」という、じつに荘厳な題の楽曲のなかで、ささやかなものを欲しいと願った。それでも今、我が身を省みると、その「ささやかなもの」さえも、いつしか失くしてしまっているように感じられる。かつては持っていたのだ、本当に。誰かのために何かを為したいという、真っ当な欲を。できれば世界を住みよい場所に変えていきたいという、青臭い夢を。それでも年を重ね、挫折を味わい、不遇に見舞われるたびに、心が荒み、気付けば「博愛」とは縁遠い人間になってしまっていた

僕の書いた文章が、初めて「多くの人」に読まれたのは、19歳を迎えようとする春のことだった。某紙の読者投稿欄で(※以下、要約します)、これまで自分は少数派への配慮というものができていなかった、どれだけ持論が正しいように思えても、今後は他人様の意見を(まずは)聴くようにしたい、そのような誓いを述べた。その約束を守り通して、立派な大人に成長するどころか…

いや、これ以上は言うまい。誓ったことを貫けなかった、それだけを白状したい。

<<あぁ、全てが人並みに、うまく行きますように。>>

そんなことを望みながら、ふらふらとした足取りで、辛うじて生きのびてはいる。でも「それ以上」のことは、まるで、できていない。若き日の自分が、それを知ったとしたら、きっとガッカリするだろう。そのとき周りにいてくれた旧友たちに、どう申し開きをすればいいのだろうか。尾崎豊さんの楽曲「傷つけた人々へ」のリリックが、胸に突き刺さってくる。

<<刹那に追われながら 傷つく事 恐れる僕は>>
<<あの日見つけたはずの真実とは まるで逆へと歩いてしまう>>

 

くり返すように、こんな僕にも、<<あの日>>と呼べるような瞬間が、たしかに、あったのだ。そのとき僕は、本当に、自分以外の誰かの幸せを、心の底から願っていたのだ。それは尊く、切なく、息苦しくさえある心的状況だった。この世界の<<真実>>を知れたような気さえした。いつの日か自分が、誰かを深く傷つけることになることなど、予期できていなかった。そして、人が傷つくということ、その本当の意味を、分かっていなかった。

それなのに僕には、自分史を振り返る今、たしかに「傷つけた人々」がいることに思い当たる。いつか目指した方向とは、<<まるで逆>>に歩きつづけ、取り返しがつかないほど遠くへ来てしまったように思う。中村一義さんと尾崎豊さんの歌声は、辛うじて耳に届く。その声は遠くから、僕を引き戻そうとする。それでもこの心身に、引き返すだけの気力や体力は残っているだろうか。かつて持っていたはずのイノセンスを取り戻すことはできるだろうか。

難しい。だから、せめて<<ほんの少しの博愛なる気持ち>>を、こんな場所に来てしまった今だからこそ、握りしめたい。

<<愛という言葉はなくても ひとりで生きてく訳じゃない>>

尾崎豊さんは、そう歌う。もしかすると僕は、もう「愛」などというものは獲得できず(取り戻せず)、余生を寂しく送っていくことになるのかもしれない。人を傷つけたことを悔やみながら、ただ老いへと向かっていくのかもしれない。それでも、たしかに、自分は「ひとり」ではないのだとは思う。こんな場所にさえ届く声があり、こんな場所にでも微かに差し込む光はある。吹き込んでくれる風はある。

まだ、やりなおせるだろうか。できることが、なにか残っているだろうか。正しいことを願う勇気を、まだ絞り出せるだろうか。

いったい「愛」とは何だろう。もしかすると、それは「後悔」のなかからしか生まれない、どうにかしかして少しは真っ当な人間になりたいという、切実な思いなのかもしれないと、いくぶん自己弁護的に思う。それは生まれた瞬間から胸に備わっている「イノセンス」とは少し違って、それを一度は失ったのち、何とか立ち上がった時、炎のように胸に宿る「別の何か」であるのかもしれない。

だとすれば僕たちは、何らかの過ちをおかさなければ、つまり自分を責める経験を持たなければ、ひとりで生きているわけではないことに気付けず、<<ほんの少しの博愛なる気持ち>>という、その実、相当に重たいものを獲得することもできないのかもしれない。

<<僕はなんてまぬけな男だったろう>>
<<君にはもう許されることもない>>

かつて僕をズタズタに傷つけた人たちと、今から「仲良く」やっていくことは難しい。それでも僕にだって、人を傷つけた経験はあり、もう「仲良く」はしてくれないであろう誰かを、この惑星のあちらこちらに思い付く。今さら謝っても、どうにもならないだろう。だから僕も、誰かに謝罪してもらうことなど、もう求めずに生きていきたいと思う。傷けられたことは、とてもじゃないけど忘れられはしない。それでも、恨みつづけることを、やめる努力だけはしたいと考える。

そして、僕自身が「傷つけた人々」のために、僕自身が謝ったところで、恐らくはふさがることのないはずの傷口のために、中村一義さんの歌声が、この惑星の上に、ずっと響きつづけていけばいいなと、あらためて願う。その定義するところの「愛」が、僕のイメージするものとは違っていたとしても、「強く何かを望む」という姿勢だけは、きっと僕たちは共有しているはずだから。

<<愛が、全ての人達に、分けられてますように。>>

※<<>>内は中村一義「永遠なるもの」、尾崎豊「傷つけた人々へ」の歌詞より引用

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