「13歳からのアート思考」音楽を再構築する

「13歳からのアート思考」を読んで音楽に何ができるか本気で考えたPart2リスナー向け

どうも、ヤスイです。
前回に引き続き「13歳からのアート思考」を読んで、音楽に何ができるのかを考えてみます。

ざっくりあらすじを書いておくと、まず「我々は1枚の絵画すらじっくり見ることができない。せいぜい説明文を読んで納得する”確認作業”をやっているだけで、アート思考とは言えない」という問いかけがありました。
モネの睡蓮を見て「カエルがいる」といった子どもの話もしましたね。で、「モネがカエルを描いたかどうか」という確認作業しかできない大人は「そんなもんいないよ」というわけです。でも子どもが言う。「今は潜っているだけだよ」
1つの作品を見て、自分なりの答え、考えを導き出すこと。これこそがアート思考だと本書は言うわけです。

で、アートというのは作品としての「表現の花」以外に、「興味のタネ」と「探求の根」があって、そこが大事なんだと。

13歳からのアート思考より

13歳からのアート思考より

僕はバンドをやっていて、音楽分野のアーティストです。単純に12音階の音の並びという観点で、新しい音楽は生まれません。12音階の中から心地よい組み合わせを選ぶわけですから、そんなに大量の組み合わせは存在しないんです。つまり「表現の花」だけを見ていたらもう音楽に新しい発見はない

僕自身がそう思っていました。新しいフレーズを頑張って考えても「どうせこれもどこかの誰かがすでにやってるんだろうな〜」って。

ただそうじゃない。表現の花だけじゃなくて、アート思考、興味のタネと探求の根に目を向けると、もっといろいろな発見があるんじゃないか。
そう思ってこの記事を書き始めたわけです。

で、前回は本書で紹介されている6つの作品の1つ目、アンリ・マティスの「緑のすじのあるマティス夫人の肖像」という作品を紹介しました。詳しくは前回の記事を読んでほしいのですが、マティスはこの作品で「アートの役割ってなんだ?」という興味のタネから、「一瞬を正確に切り取る役割はカメラに任せてしまったらいい」と探求の根を伸ばし、色使いや質感、構図が現実とかけ離れた「緑のすじのあるマティス夫人の肖像」という表現の花を咲かせたわけです。

それに対して音楽に何ができるかも少し考えてみました。
今回はその続き。早速行きましょう。みんなが大好きピカソの作品です。

ピカソ 人間の目ってそんなに信用できるのか?

さあ、ピカソです。ダ・ヴィンチに次いで有名な画家と言ってもいいでしょう。生涯で15万点もの作品を残し、ギネスブックに「史上最も多作なアーティスト」と言われています。1日1作品作っても400年くらいかかります。わけがわからないですね。1日10作品でも40年です。

画像:パブロ・ピカソ「ゲルニカ」

画像:パブロ・ピカソ「ゲルニカ」

ピカソといえば、ゲルニカですよね。教科書にも載っていた作品でドイツ空軍がゲルニカという都市に対して行った無差別爆撃に影響を受けて作られ、反戦のシンボルとして物議を醸したらしいです。
ただまあ僕らの感覚からすると「教科書に載っていたからすごい」とかそんなレベルです。物々しい感じは伝わってくるけど、子供の落書きみたいな人いるし、幽霊みたいに顔だけ浮いてる人もいるし、なんの生物かわからないやつもいる。正直、「戦勝中の無差別爆撃のシーンを書いた画」と言われなかったら何が描いてあるのかさえよくわからない。
Wikipediaの解説とか読めばある程度わかってくるんですが、そういうものを読むのはただの確認作業であり、アート思考ではない。

で、これ以外にもピカソの作品ってよくわからないものが多い。キュビズムという画法であることは知っているけれど、何がそんなにすごいのかわからない。確かに、子どもなら誰しもピカソの画に対して「下手くそやん!」って言ったことがあると思います。しかし、それをちゃんと教えてくれる人はいなかった。

ということで学びましょう。ピカソは何を壊し、何を創りたかったのか。

本書で紹介されている作品は「アビニヨンの娘たち」です。
マティスが「緑のすじのあるマティス夫人」を公開して20世紀アートを切り開いた2年後、1907年に公開されました。

画像:パブロ・ピカソ「アビニヨンの娘たち」

画像:パブロ・ピカソ「アビニヨンの娘たち」

「緑のすじのあるマティス夫人」もなかなか衝撃的でしが、これはそれ以上にわけがわからない。とりあえずちゃんと見てみましょう。

どうやら5人の人間らしきなにかが描かれています。男か女か僕には判別できない人がいますが、娘たちというタイトルからも女性なのでしょう。
まずいちばん左の女性。どういう顔よこれ。顔だけ黒いし、びっくりするぐらい真横向いてるのに、視線がどこ見ているのかよくわからないし、鼻がでかい。あと他の女性もそうだけど、乳が三角形で尖っている。右か左かはわかりませんが、とりあえず片方の足がよくわからないことになっています。で、頭の上から謎の手が。6人目?
で、その隣りにいて正面を向いている2人の女性。なんかポージング決めていますが、どういうこと。左の女性は肩の角度がおかしいし、右の女性は腕どうなってるの。
で、更に問題なのが右側にいる2人の女性。もうこの際、腕の角度とか、乳が三角形とかはおいておきましょう。顔だ。上の女性なんて、人かどうかもわからない。どちらかというとヒヒみたい。ライオンキングに出てきそう。
で、中央下にある果物的ななにか。手前にある赤いやつは一体どういう形しているんでしょうね。

見れば見るほどわけがわからない。ゲシュタルト崩壊するというか、作品そのものがゲシュタルト崩壊しているというか。

有名な建築家がピカソの画を見て「醜いばかりで、観る者の心を萎えさせる」と言ったそうですが、たしかに見ていて気持ちいい画ではない。
でもこれが「20世紀を代表する芸術」とか言われているんです。

なぜなのか。「アビニヨンの娘たち」という表現の花だけを見ても答えは出てきません。どういう興味のタネから探求の根を伸ばしたかが重要です。

ピカソが抱いた興味のタネは「3次元空間を2次元上で表現する優れた手法として”遠近法”が用いられてるけど、それは本当に3次元空間を2次元上に表現できているのか?」です。

絵画とは何らかの3次元空間にある何らかのシーンをキャンパスという2次元上で表現するものです。そのときに使われるのが遠近法ですね。で、遠近法についてそれは違うんじゃないか、と問いかけるわけです。

画像:遠近法

画像:遠近法

こういう図を見たことがあると思います。何かを描くとき、僕らは当たり前のように遠近法を使います。だってそれが一番正確だと思っているから。まあ普通の感覚からしたら、遠近法で描いたほうがわかりやすいですよね。
遠近法の基礎になっているのは「視点」です。特定の視点から見たとき、現実に沿った見え方をするように描く技法です。非常に合理的。自分が見た状態をそのまま正確に表現する。ただ、前回紹介したように、その役割は「カメラ」に奪われていた。

じゃあ、アートは何を表現すべきなのか。3次元空間を2次元上に表現するという役割はOKとして、本当に遠近法で3次元空間を2次元上に表現できているのか?

ということでこの画像を見てください。

画像:サイコロの画 どっちがより”リアル”か

画像:サイコロの画 どっちがより”リアル”か

サイコロを2つの方法で表現しました。サイコロは3次元空間のものですが、それを2次元上に表現しています。片方は遠近法を使って、もう片方は分解してみました(サイコロの目を上手くかけなかったのでちょっと違和感があるが、それは許してほしい)。
どっちが”リアル”かと聞かれたら、多くの人は遠近法を使った方を選ぶと思います。だって、実際に見たときはそういうふうに見えますから。

でも、遠近法を使った状態だと「その視点」からの立方体しか見えません。サイコロの裏側がどうなっているかわからないわけです。3次元空間であれば、持ち上げて裏を見るか、自分が裏に回ればいい。でも2次元上ではそれができない。ということは、3次元空間を遠近法を使って2次元上に表現した場合、特定の視点以外の情報が失われてしまっています。
つまり、遠近法は「リアルじゃない」というわけです。むしろ、分解して平面にした図のほうが、サイコロの実態をよく表している。そう考えたわけです。

ピカソは「アビニヨンの娘たち」で、多数の視点から見た3次元空間を2次元上に表現したのです。腕の角度がおかしかったり、肌の色が違ったりしたのは、別の視点からみたものを組み合わせたからなんです。

まあ、ぶっちゃけ説明受けても納得行かない部分は多いです。顔とか。いや、どんな角度から見てもあんな顔にはならんでしょう、とは思います。
ただ、「遠近法って本当に正しいか?」という問いに対して咲かせた表現の花と考えると、ピカソのわけがわからない画も少し理解できた気がします。

”リアル”さに対する問いかけ。これがピカソがやりたかったことです。ちなみに遠近法の基となる考え方は紀元前5世紀ごろからあったらしいですが、手法として確立したのはダ・ヴィンチらしいです。ダ・ヴィンチは15,6世紀の人ですよね。アート、芸術派古代からあったわけですが、今僕たちが当たり前と思っている遠近法による表現はここ数百年程度のものなんです。
エジプトの壁画とか、ありえない手の角度、不自然なポーズで平面的に描かれていますよね。あれも、一種のリアルさなんです。見たままでは不完全と考えたエジプトのアーティストたちは、それぞれに必要な要素をすべて書き出して1枚の画に表現するという方法を取りました。遠近法を使うと角度的に片方の手が見えないとか、そういう不完全さが生じてしまいます。腕は同じ長さのものが2本、指は5本あるもの。それを表現することが、彼らにとっての”リアル”だったわけです。

音楽にとって”リアル”さはなにか

ここから音楽について考えるのはすごく難しい。やることは当たり前を疑う、ということだけですが、疑えないから当たり前なんです。

ただ当たり前を壊してきた人が音楽業界にもたくさんいます。僕が思いついたのは秋元康氏。作詞家、作家、プロデューサーとして活躍されていますが、おニャン子クラブで一時代築き、美空ひばりの「川の流れのように」で全く違うジャンルでも地位を確立。そしてAKBグループです。日本の音楽シーンを語る上で欠かせないですよね。
で、秋元康氏がどんな当たり前を疑ったか。これは僕の私見でしかないですが「プロフェッショナルであること」だと思います。音楽家、ミュージシャンってプロの領域なわけです。才能に恵まれ、厳しい訓練を積み、人々から尊敬を集める存在、それがミュージシャンだったわけです。アイドルもものすごい倍率のオーディションを乗り越えて訓練を積んでデビューさせることが当たり前だった時代。

そんな中、秋元康氏は「普通の女の子で良くない?」って考えたんでしょうね。厳しい訓練を積んで才能に満ち溢れた完成された存在より、普通の人が頑張って成長していく姿のほうが、感動的じゃない、と。
これが衝撃的だった。昔から売れてないアーティストを見つけてその人達の成功を願う、みたいな層はいましたが、あくまでも「才能も実力もあるのにまだ認められていない」人を見つけたい、という感じですよね。一方、AKBグループは「クラスに一人や二人はいるくらいの女の子ががんばります」というスタンス。

「アーティストはプロフェッショナル」という当たり前を疑ったのが秋元康氏。

じゃあ、ピカソが行った「一度分解して再構築する」というアプローチはどうでしょうか。これも私見ですが、僕が知っているアーティストではKing Gnuや藤井風、YOASOBIなんかが近いことをやっているように思います。
King Gnuはロックと芸術的要素が強い音楽を、ポップスというジャンルで再構築しています。だから新しい。
藤井風は逆にポップスを分解して違うジャンルに昇華させているように思えます。
YOASOBIもわかりやすいですよね。小説とか、他カテゴリの作品を音楽という形に昇華させています。

こういうアプローチ、自分に何ができるかなって考えたとき、パッと思いついたのは「リスナーが創るミュージックビデオ
ミュージックビデオって何時間も複数のカメラで大量に撮影して、かっこよく編集して集約された状態で公開されます。

僕らのミュージックビデオ「リゼ」も、丸一日かけて大量に撮影して、4分間に集約されています。
これはこれでかっこいいんですが、これをリスナーが自分で創れるようになったら面白いかもしれません。「私このバンドのギタリストのファンだから、ギタリストがもっと見たい!」といっても普通のミュージックビデオでそれはできないわけです。

そう思ったきっかけが、僕らがやっているリモートセッション動画。僕らはコロナ対策として屋外活動を自粛し、その代わりに毎週リモートセッション曲を公開しているのですが、ちょっと見てみてください。

リモートセッション曲、6回と14回目です。回を追うごとに演奏も映像もどんどん進歩していって、14回目ともなると結構見ごたえがあります。
ただ、初期の動画を見ていると、これはこれで価値があるなと思ったわけです。というのも、初期の動画はそこまで編集されていない、3人がただ並んでいるだけのシンプルな動画です。つまり、3人が演奏している姿、全部が入っている。一方、14回目の動画は見ごたえあるし確かにかっこいい作品ですが、入っていないシーンが大量にある。

ピカソは遠近法に対して「それは1つの視点から見たときの正解であって、情報量が少ない」と考え、「いろいろな角度で見たものを再構成したほうがよりリアルである」と考え、キュビズムという手法を開発しました。
その観点から見ると初期の3人の演奏シーンが並んでいるだけの状態のほうがピカソ的かもしれません。

その上で、リスナーそれぞれが自分が見たいシーンを組み合わせたり、色んなパターンを創ったりできたらどうだろう。ギタリストがもっと見たい人もいれば、ボーカルばかり見たい人もいるでしょう。ギターソロを弾いているとき「その間、ボーカルはどんなパフォーマンスをしているんだろう」ということに興味を持つ人もいる。

ライブの魅力ってここにあると思います。ステージのどこを見るかはリスナーが自由に選べる。場所によって音が違ったりするけど、それもリスナーの好みで選んでいい。
ミュージックビデオはじめ、完成された作品にはこういう余裕が少ない。提供者が「これが一番いいと思う」というものをリスナーに押し付けているとも言える。

どう実現すればいいのかわかりませんが、最近はブラウザで使える動画編集ツールも充実しています。ファンクラブを作ってその会員特典としてそういうツールのアカウントを与えて、ミュージックビデオの素材となる映像を提供して、各々が自分にとっていいミュージックビデオを創る。
出来たものはおそらくそこまで高品質ではないだろうし、万人にとって価値のあるものではないかもしれません。でも、その人にとっては最高の作品になるはず。

こんなふうに「アーティストが完成させたものをリスナーに届ける」という常識を「リスナーの好みで作品を完成させる」という風に変えれたら面白い。
1億総クリエイター時代。「自分なりの作品」を創りたい人は多いと思う。この案、大変そうだけど具体的に進めていきたいな。

カンディンスキー 音楽と絵画

さて、かなり長くなってきましたが、もう一つのアート思考を紹介します。まずは作品を見てみましょう。

画像:ワシリー・カンディンスキー 「コンポジションⅦ」

画像:ワシリー・カンディンスキー 「コンポジションⅦ」

またよくわからない作品が出てきましたね。じっくり見てもらって何を描いているのか考えてみるのも面白いのですが、結論から見るとカンディンスキーは「何を描いた」といえる具象物を一切描いていません
カンディンスキーはクロード・モネの「積みわら」という作品を見て、何が描かれているかわからなかったそうです。で、彼は「何が描かれているかわからない”のに”惹きつけられたのではなく、何が描かれているかわからないから”こそ”惹きつけられた」と考えたそうです。

どういうことかというと「何が描かれているのかわからないからこそ、見る人は自分の考えを見つける必要がある」ということです。そこでカンディンスキーは自分が好きな「クラシック音楽」を聴いて、そのイメージを画にしました。

ここで重要なことは、クラシック音楽という画にならないはずのものを画にしたということではなく、見る人自身が自分の考えで作品に意味を付けるという新しいアートの見方を作ったことです。

本書ではアート鑑賞について「背景とのやり取り」と「作品とのやり取り」という2つを紹介しています。

まず「背景とのやり取り」ですが、本書では次のような図で説明してくれています。

背景とのやり取り:13歳からのアート思考より

背景とのやり取り:13歳からのアート思考より

前回紹介したマティスの「緑のすじのあるマティス夫人」はカメラの登場という衝撃的な出来事に対して「アートとは見たものをそのまま正確に表現しなければならないのか」という問いかけを行い、作品を創りました。
今回紹介しているピカソの「アビニヨンの娘たち」であれば、「遠近法に従って1つの視点から見えるものを表現することが本当にリアルなのか」と問いかけています。

このように、作品が作られた背景を知り、製作者の意図を踏まえ作品を見ることを「背景とのやりとり」といいます。大切なのは作品という表現の花ではなく、その背景にある興味のタネと探求の根である、という話は前回しましたね。

一方、作品とのやり取りは次のような図で説明してくれています。

背景とのやり取り:13歳からのアート思考より

背景とのやり取り:13歳からのアート思考より

乱暴な言い方をすると、「製作者の意図を考慮せず、作品だけを見てなにかを感じること」が作品とのやり取りです。
ここまで読んでいると違和感がありますよね。アート思考では興味のタネや探究の根が重要です。作品だけをそのまま見たらピカソの作品はわけがわからないし、マティスの作品はただの下手くそです。

でも、音楽を聴くとき、自分の過去体験などを思い出して感傷に浸ることがあると思います。当然ですがその音楽を作った人は、あなたの過去の体験に対してその曲を作ったわけではありません。作った人には作った人のバックグラウンドがあるはずです。
でも、音楽を聴いて感傷に浸ることが間違いだとは誰も言いません。音楽においては作品とのやり取りが一般的なのです。official髭男dismの曲を聴いて共感する人は多いと思いますが、作詞した藤原さんの過去の恋愛に共感しているわけではないでしょう。自分の過去の恋愛に重ね合わせて共感しているはずで、藤原さんのバックグラウンドに大きな意味はありません。

背景とのやりとりでは、作品は作られた瞬間に完成しています。作品は背景を知るための要素の一つという立ち位置だからです。極論、作品という形でなくてもその背景が伝われば良いわけです。
一方、作品とのやり取りは、作品が作られた瞬間に大きな意味をもちません。それを見る人がいて、見る人が自分のバックグラウンドから意味を付け加えて、完成します。

ここにある考え方は「作品はそれ自体が完成形ではなく、見る人によって完成される」ということです。

ピカソの作品のところで「アーティストが完成させたものをリスナーに届ける」という常識を「リスナーの好みで作品を完成させる」という風に変えれたら面白い、ということを書きましたが、まさしくそれを絵画に導入したのがカンディンスキーということです。

著者いわく、この考えを取り入れたのはカンディンスキーが初めてではないそうです。禅や日本画、茶道に代表される日本文化には、昔からこの考え方がありました。

小綸子屏風

小綸子屏風:描かれていないものが多いのは、それを見る人が補うため

例えばこの「小綸子屏風」
非常にシンプルです。色もないし、ほとんど何も描かれていません。日本画にはこういう作品が多いですが、なぜこんなにシンプルにしたかというと「描かれていない部分を見る人が補うため。情報を減らすことで、見る人が考える余地を増やすため」です。

もう一つ例を挙げると、千利休と豊臣秀吉のエピソードがあります。千利休の家の庭に立派な朝顔が咲き誇っているという噂を聞いた豊臣秀吉がその朝顔を見に行ったそうなのですが、千利休は秀吉が来る直前に朝顔を摘み取ってしまったと。で、一番キレイな一輪だけの朝顔を花瓶に挿しておいたと。
なかなかとんでもないことをしますが、千利休にとって「朝顔が咲き誇っている庭」をそのまま見るより、「朝顔が咲き誇っていたらしい庭と、そこに咲いていた一番美しい一輪の朝顔」を見て「空想で理想の庭を創り上げる」ほうが素晴らしいと考えたんでしょうね。
確かに、期待して見たものが意外と大したことがなかったみたいな経験は多い。「こんなもんか」となるくらいなら見なきゃよかったとならないように、美しい空想を美しい空想のままで終わらせる。おしゃれだねえ。

聴く人が完成させる音楽

カンディンスキーのアート思考は「創り手だけじゃなく、見る人が完成させる作品」といえます。
で、音楽についてはこのことが当たり前になっているから、そのままじゃ面白くない。

「ミュージックビデオをリスナーが完成させる」という取り組みも面白いですが、こういう大胆な何かが必要。
いっそ、音楽の一部を任せてしまっても良いかもしれませんね。例えば、リードギターを除いた状態でリリースして、好きにリードギターを重ねてもらうとか。リスナー参加型の音楽です。
コロナ禍で話題になった星野源の「うちで踊ろう」も参加型の音楽といえます。あと、瑛人の「香水」も、本人の楽曲だけじゃなく、他の人の歌ってみた、踊ってみたなど、聴く側が自分なりに完成させた作品として大きく広がりました。カバーや踊ってみた、弾いてみた動画がきっかけで本家の人気が出ることも少なくありません。やっぱりみんな、クリエイターとして参加したいんだよね。で、見る人も1つの作品じゃなく、いろんなクリエイターがそれぞれ解釈した作品を見たいんだよね。

こういうのをもっと推し進めて、あえて不完全な状態でリリースし、聴く人が完成させる音楽というコンセプトは面白いかもしれない。
でもこれらはあくまで表現者しか参加できない。1つの曲なのに、100人が聴いたら100通りに完成される曲。なんか面白いこと出来ないかな。スマイ(Hecatoncheir sistersのボーカル)の声をボーカロイドにして、基本はこっちで作った状態でリリースして、聴く人が好きに歌詞を変えられるとかしたら面白いかもしれない。

ITサービスだったらこうしたカスタマイズは当たり前。YouTubeのトップページにアクセスしたとき、同じURLにアクセスしているのに僕とあなたでは全く違うコンテンツが表示されています。Googleで検索したときも、同じキーワードなのに僕とあなたの興味関心の違いなどから違う検索結果が表示される。Amazonもそうだし、Spotifyとかもそう。
同じものを見て、聴いて、使っても、使う人にカスタマイズされているというのは当然。これを1曲の中で出来たら面白い。

音楽の価値はなんなのか

今回はここまで。こんなに長くなる予定なかったんですが、書き始めたら長くなりました。残り3つのアート思考が残っていますが、次回考えてみます。
前回はマティスの作品から「音楽の正しさってなんだ」という問いを考えてみました。今回はピカソの作品から「リアルさとは、1つの見方じゃ不十分」という問いを、カンディンスキーから「リスナーと創り上げる音楽」という問いを考えてみました。

ここまで考えて「音楽とはなにか」を考えさせられます。
音楽って何だと思いますか?音楽ってなんで価値があるんですか?

キャンバスに絵の具を塗っただけのものがアート作品としてとんでもない価値を生むこともあります。ただの音の並びが多くの人の心に響くこともあります。

音楽ってなんでしょうね。
僕はどちらかというと「やりたいことをやっている」というタイプのアーティストなので、あまりここを深く考えたことがなかった。自分たちの曲が人にどんな影響を与えるかより、自分たちにとってどうか、を重視してきました。

今、音楽の金銭的価値は下がっています。サブスクの登場で、曲自体はほぼ無料で聴けるようになりましたし、優れた映像作品がYouTubeに上げられていて、無料で見ることが出来ます。
ライブもコロナの影響で大きく価値を落としました。当然ですが、ライブ配信のチケット代はライブハウスのチケット代より安い。

今こそ音楽の価値を再考する必要があるのかもしれません。

次回は後3つのアート思考から考えて行きますが、正直ここからはかなり難解です。マティスは「見たものそのままじゃなくていい」と常識を壊し、ピカソは「1つの視点だけじゃ不十分」、カンディンスキーは「作品の意味は見る人が考えろ」と、それぞれ壁を壊してきました。
後3つ、どんな壁を壊すか楽しみにしててください。

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